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【読書】現代俳句とインスタグラム:言葉の曖昧性と意味の裾野

現代俳句は、インスタグラムみたいだった。
福田若之の俳句集『自生地』(東京四季出版)は、とても視覚的な文章で、一句一句の情景が目に浮かぶ。

「樹に道に棒付きアイスの棒に雨」

「熱帯夜ジョジョをはなから読み返すッ!」


へえ、これって俳句なんだ!

なんとなく、この言葉の向こうにリアルな日常が見える。むわっとした真夏の雨の日の足元、その時考えていること。暑いしダルいし休みだし、体を引きずりながら、とりあえず冷房の下で本棚に手を伸ばす感覚。

人気のフォトグラファーの切り取る風景、構図が独創的であるように、福田氏の俳句にも同様の独自性がある。俳句の中の言葉は必ずしも「美しい語」ではないけれど、俗物的な固有名詞や情景が、とても色鮮やかで美しく感じる。

そして、彼の俳句は自身の経験に基づく主観的なものであるのに、共感覚のようにノスタルジーやメランコリックを感じるのが不思議である。

 

福田氏の俳句は日常の中の気持ちの昂ぶりや落胆、心に引っかかる情景をより口語的に綴っている。それらは「嬉しい」「悲しい」と一言で収まるようなものではなく、ふと心に過ぎる掴み所のない感情。曖昧で一瞬で過ぎ去る感情を彼は敏感に察知し、言葉という記号に変換しようとする。

一つの単語がはらむ意味は、決して一つにとどまらないようである。
その単語に関連のある概念がくっついていたり、個人の体験や印象から付け足された感情がくっついていたりもする。「猫」という言葉は、毛皮に覆われた食肉目の哺乳類を指しているけれど、その言葉から「可愛い」「恐い」「触りたい」「キティちゃん」などと連想したりして、人は無意識に意味を拡大している。一つの言葉がはらむ意味は意外と曖昧で、狭義を頂点にして緩やかな裾野のように広がっている。


福田氏はこの〈言葉の曖昧性と意味の裾野〉をうまく利用して、自身の俳句に落とし込んでいるように感じる。5、7、5という限られた文字数にも関わらず、彼の俳句に空間的・時空的な広がりを感じるのは、こうした言葉の特性を自在に操っているからではないのだろうか。

俳句は難しいものというイメージが強かったが、『自生地』はよりカジュアルで映像のように言葉を楽しめる俳句集だった。
独特な情景の切り取り方、ユニークな言葉選び、そして言葉の意味の広がりを利用して読者個人の体験へと繋げる作用を楽しむことは、インスタグラムでお気に入りのアカウントを見ている感覚と似ていた。

これって私たち世代の感覚なんだろうか。

福田若之インタビュー記事:
i-D magazine
「俳句はカウンターカルチャーだった」佐藤文香 × 福田若之 interview